優秀な人と触れあうべきだと思った理由

一般教育

私が初めて塾に行ったのは、中1で駿台予備校でした。
クラスも下から始まり、中1からやってたのに中2からはいる子にどんどん抜かれていきました。
特に不思議だったのは、英単語テストです。
毎週100個の範囲から10個が出題されます。
私は、いつも10点満点で0点か、1点でした。
でも、次に低い子は4点もあり、平均は7点ぐらいです。
そして、自分と一緒に遊んでいる友達は必ず10点でした。
ある日、本気で単語テストを頑張ってテストに臨んだのですが、
結果は、5点で平均点にも届かなかったのです。
しかも下から二番目というおまけつき。
そこから、完全にやる気をなくして塾に行くのが嫌になり行かなくなりました。
結果、二年の夏に塾を辞めて家で家庭教師をつけて高校受験をして偏差値50の高校へ進学しました。
これだけ塾にかけてもらっても偏差値50です。

高校入学してすぐ代々木ゼミナールで得意な数学を受講し、国語と英語は小さな塾へ行きました。
しかし、またしても続かなくて塾を辞めました。
それどころか2学期の成績で1が11個という事件を起こし、留年騒ぎを起こす始末。(詳細は別に話すとして)
何とか首の皮一枚で進級し、高3から受験に向け城南予備校と家庭教師のダブルで受験に臨むことに。
この時の理系の家庭教師の先生が東大卒の社会人プロ講師の先生でした。

ある時、英語ができない自分に対して東大の先生が僕が教えると言って何コマか教えてくれたのだが、
英語は、明治大学の先生に習っていてその先生のほうが分かりやすく話しやすかったので断ってしまいました。
(その時の自分は、東大の理系なら明治の文系の方が英語できると思っていた。)
今思うとその数回の授業が圧倒的に論理的で価値のある授業だったのだが。。
そして、目標校に受からず結局、浪人する始末。

浪人時代は予備校と東大のプロ家庭教師で勉強し何とか偏差値60ぐらいの大学になんとか合格した。
これは、高校でも予備校でも1,2を争う大出世で調子に乗てっていた。
東大のプロ家庭教師の影響が大きいのだがこの時は全く気が付いていなかった。
お世辞にもコミュニケーション能力が高いわけではなく、教えるのがうまいとも感じていなかった。
私の疑問には即座に的確に答えていたのも関わらず。。

大学入学後は、意識の高い子たちに囲まれた。
テスト2週間前から集まってテスト勉強したり、図書館にこもって勉強する人たちに囲まれた。
これはカルチャーショックだった。
なんと大学でも勉強や就職の話で盛り上がっているのである。

そんな環境にもまれながら、塾好きの私は、日米英語学院、日米会話、四谷ゼミナール、毎日の英会話、レアジョブ、テンプル大学といろんな塾に通った。
そして、大学院で日本最高峰の大学院に入ったがここで更なるカルチャ-ショックが起こる。

それは、会話のレベルが高いことだ。
びっくりしたのは以下の3点。
(1)知識の広さ
 専門は物理だったのだが物理の話をしても私よりもみんな知っている。
 物理以外の工学やコンピューターサイエンスはもちろん、生物から歴史、経済まで知識が及ぶ。
 大学院は、地方からいろんな人が来ているんだがみんな地元の話で盛り上がっている。
 例えば、九州から来た人の話で大淀川の話になり、九州で二番目に流域が大きいやつでしょう。
 とか言い出して歴史の話に突入したりする。
 四国すらいえない私からするとマジで意味が分からなかった。
 四国が言えないことは、偏差値60の理系大学なら笑い話ですんだが、
 ここでは笑い話で済まない環境があった。

(2)知識の深さ
 ちょっとテレビで知ってる程度のキーワードで話をしていた私だったがこの環境では会話にならない。
 皆、一つ一つの物事をよく考えて調べて自分の言葉まで落としているので知識が深い。
 新宿の話をしても自分より知識が深かったりする。
 戦略特区として新宿は、、、、とか言われる始末。。

(3)論理性
 話をするのも一苦労。論理の飛躍や主張の根拠が崩れると指摘される始末。

こんな息苦しい環境嫌だと思うかもしれないが自分は人生で一番居心地が良かった。
なぜなら、理不尽がないからだ。
皆が相手を尊重し、違いを受け入れたうえで論理的には会話する環境があったからだ。
利害の不一致があれば違ったかもしれないがいい意味で距離感がありすごく心地よかった。

高校や大学、一般社会では、雰囲気や勢い、権限で物事を進めようとする人が多いがそんなことはめったになかった・。
しかも、私の主張を難なく理解してくれる理解力の高い人が多かった。

高校、大学、大学院を比較すると圧倒的な環境の違いを実感した。
優秀な人だけに囲まれた人にはわからない環境の違いを私は肌で感じてしまった。
優秀な層は、話している内容や物事の判断の基準が明らかに違う。

偏差値60の大学で気づいたのは、楽しそうに勉強の仕方について話し合う環境があり、
皆で協力して勉強する環境があることだった。
偏差値50の高校では、勉強しないことがかっこよかったし、
勉強の話をしてる人は少なかった。
大学院で気が付いたのは、論理力と知識力の大切さおよび意味を持って行動することだ。
正直、高校や大学の知り合いの多くは行動に意味を考えていない。
しかし、大学院の人の多くは意味を持って何か行動していることが多い。

このように環境によって全く違う。
そして、これが分かったとき東大のプロ家庭教師のすごさを思い出した。
私の模試の成績を分析し、問題個所を英語の構文解釈ができないことと見出していた。
裏を返すと考えないで英語を説いていたことなのだが、そこを見抜いていた。
数学はもちろん数回の英語の授業でもなんでその答えに行きつくのかの論理性を重視していた。
なんとなく感覚で英語を説く私からするとうざかったのだが、
数学でも答えがあることよりもその論理性にを重視していた。

この時、東大の先生に二年間学べたことのありがたさと親に初めて感謝した。
これが私が思う「若いうちからでも優秀な人と触れ合うべき」理由だ。

私以外の東大院生は、おそらく小さいときから良い環境に身を置いて育ってきている。
西新宿個別指導塾をはじめ偏差値70を超える中学・高校出身の先生を雇うようになり確信に変わったが。
優秀な先生、優秀な仲間、優秀な親、明らかに良い環境に彼らは身をおいている。
東大生はがり勉だなんてごく一部で、がり勉下から彼らが優秀なのではないのだ。

環境が良く必然的に東大生は育っている。
でも、自分のような区立中学や高校にそんな環境はない。

高校の友人は、フリーターがどうだこうだ言っているときに、
院の友人は、業界や企業価値の話をして就活しているのだ。

この差は、明らかに環境が作り出している。
だから、優秀な人に触れるべきだと考えているし、
高偏差値の学校に行くメリットは学歴以上に周りの環境がいいことだと思っている。

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